復刻『週刊 岡庭昇』

〜岡庭昇を因数分解する〜

第2回  2016年12月26日(月)

『性の歪みに映るもの 日本近代文学と身体の倒錯』を、読む。

 

こんにちは、岡庭野野花です。

先週からこのブログをスタートしましたが、初回の12月19日は、父・岡庭昇の誕生日でした。もしかしたら、何か意味のあるスタートではないかしらと、思っています。

 

私が父の本を読み返すように、父もまた、昔書いた本を手にすることがあるようです。先日手にしていたのは、『性の歪みに映るもの 日本近代文学と身体の倒錯』。

実はこの一冊、父の著作の中で一番好きな本です。

 

性的な倒錯と文学表現がどのようにからまりあっているのか?

また、それがどのように日本近代という権力的な制度の、反身体的な本質を反映しているのか? そんなことを綴っています。

 

ぜひ一緒に読んでください。

 

『性の歪みに映るもの 日本近代文学と身体の倒錯』

発行:青豹書房 発売:青雲社  ISBN 4-7952-8754-6

 

性の歪みに映るもの

 

野野花が付箋をつけた一節  

 

Ⅱ章の最後、p113〜

「欠損のリアリティ 日本的身体表現のねじれについて」の一節より。

 

p117〜

「文明開化」から「富国強兵」へ仮構された体系であるわが日本近代においては、さらにいまひとつの側面が、つまり規範———ことばによってなりたたしめられた規範———の論理が、抑圧の柱として考えられねばならない。

 

 むろん、なによりも明治国家が急いだのは、制度的な整備である。地租改正は、その暴力的な出発点にほかならない。文明開化も、富国強兵も、なによりもまず、制度の整備であろう。だが、奇妙ないいかただが、ついに日本の近代は、制度としては成立しえなかった。

 

 そこに、すでに二〇世紀にさしかかって近代を出発させた、わが国家の致命的な困苦と負性があった。形式的な制度だけでなく、制度をこえる制度が必要とされる。なぜなら、明治の現実は、すでに製序を不可能とするほどに、転形期の不気味なエネルギーを、ほんらい「下から」はらむものにほかならなかった。制度ではなく、制度をこえるものが必要とされるのは、要するに現実から制度がうみだされるという過程がないからである。

 

 転形期としての現実そのものを、上からおおい、一方的に整序づける現実規範が、国家にとって必要である。これは、制度によってはなしえない。制度より大きなもの、すなわち規範によってはじめて可能である。

 

 厳密にいえば、わが近代では、制度そのもののなりたちじだいが、規範をえてはじめて可能になったのではないか。古典的な自然制の頂点にたつ天皇制が、わが近代に不可欠なものとして再生され、いっぽう部落差別が強権によって再生・存続・拡大させられた必然性が、ここにある。

 

 身体へのアプローチは、それゆえ、われわれの近代史では、すぐれた規範との対決として、位置づけられねばならない。エンツェンスペルガーを直輸入してすますわけにはいかないのである。この分裂への、ひとつの視点としてわたしは、日本の近代文学における、身体の欠損のイメージをとらえかえす必要があるのではないかと思う。

 

抜粋がとても長くなってしまいましたが、略せる箇所がどこにもなくて……。

 

次回は1月9日。この文書を読み合います。