復刻『週刊 岡庭昇』

〜岡庭昇を因数分解する〜

第60回 2018年5月21日

こんにちは、岡庭野野花です。

 

日大ラクビー部の一件で、ラフプレイをした選手が記者会見をしましたが、

大学生で二十歳の彼の行動を、大人たちは見習うべきだと思わずにはいられません。

では、「帝国の暗闇から」を読み進めますね。

 

 

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P196〜

日本という国は、この50年ほどは基本的に民主主義で営まれてきた。少なくとも建て前としてはそうである。真剣にこのことを考えるなら、それはいまやまったくわれわれの実態とは隔てられている。こんにちまともに物を考えようとしているものにとって、民主主義はあからさまな虚構である。だから、民主主義の功罪を、戦後50年を遡って改めて検証することも大事なことだろう。それ以前に、それがわたしたちの社会から、すでに失われていることの実感こそが重要なのである。それが、戦後の出発において、初めから失われていたという濃厚な疑いを含めて。

この事実の確認に当たって、民主主義とは対極のもの、すなわち独裁が、どのように我々の社会を支配しているかを考える必要がある。そして、そのためには、あらためて独裁とは何かという概念規定が重要である。

 

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P198最後の行〜

 租税の集中・分散は、基本的に権力の源泉だろう。財務官僚が独占的に手中にした租税は、独裁をさらに確立するために分散される。

教育も同じである。批判などしない「使える」人材が「作られ」、その後企業社会に配られる。

そして情報は、官僚の許に集中され、記者クラブで恩着せがましく配られる。よくいわれるように、社会が右傾化し、その結果マスコミは主体性を失ったのではない。はじめから行政の、つまり官僚独裁の一部に組み込まれている。

われわれの独裁の概念を、どのように変えるべきなのか。独裁というのはこんにち、威張り散らすこととは対極である。つまり、丁寧な言葉とともにある。これがひとつ。

もう一つは個人の「独裁者」とセットになっているのではない。それはいわば、制度そのものなのである。そして制度としての独裁に加え、その付属物としての官僚がある。古典的な独裁の、つまり情緒として捉えられたそれと、離れなければならない。その本質は、制度そのものなのだ。この発想の転換がないと現在の独裁を認識することは不可能である。それは、なかなかに困難なことではあるのだが。

ここにあるのは、東大からマクドナルド・ハンバーガーまでを一貫する、マニュアル社会に支えられた権力構造である。このマニュアル社会の「勝ち組」の筆頭がキャリア官僚であり、以下同じ価値観の許で序列が決定され、権力が定まるのだ。

 

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A:

この本が書かれのは2003年から2004年にかけてですね。閉塞感はこの頃より酷くなっているのではないでしょうか?

 

B:

官僚が首相の為に「忖度」して動く日本。だ〜れも国民の方を見ていない。

 

A:

独裁制度は、たった14年の間に揺るぎなく作りあげられてしまったと思ってしまいます。

 

野野花:

父はどう考えたのでしょうか。さらに最終章「連帯へ」を読みながら、皆さんも一緒に考えてください。光がみえますように。

 

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