復刻『週刊 岡庭昇』

〜岡庭昇を因数分解する〜

第64回 2018年8月20日

こんにちは、岡庭野野花です。

 

73回目の終戦記念日、そしてお盆を過ぎて、

都会の公園でもヒグラシが鳴き始めています。

今年は本当に暑い夏で、残暑も厳しいですね。

皆さん、お元気にお過ごしでしょうか。

 

今日から新しい本を読み進めますが、どの本にしようかずいぶん迷いました。これまでは、主に父の社会批評の本を読んできましたが、本棚を眺めて、文芸評論家としての著書もたくさんあるなあと改めて感じました。

1970年代には最初の文芸評論集『抒情の宿命』を皮切りに、『椎名麟三論』『萩原朔太郎 陰画(ネガ)の世界』『冒険と象徴60年代詩の運命』などを書いています。さらに1980年代には『花田清輝安部公房 アヴァンガルド文学の再生のために』、『光太郎と朔太郎』などがあります。そして今回、ふと手に取ったのが、『漱石魯迅・フォークナー 桎梏としての近代を越えて』です。

2009年5月に新思索社より出版された本(ISBN978-4-7835-1201-1)です。

文芸評論としては後年の著書になるこの一冊を読みながら、漱石魯迅・フォークナー

を通じて父が何を見ていたのかを、探ってみたいと思い至りました。ぜひ一緒に読んでいただけたら幸いです。

 

まず、タイトルの不思議を感じずにはいられません。

 

A:

「桎梏(しっこく)としての近代を越えて」というタイトルから、まずどうしてこんなタイトルを付けたのかを考えてしまいますね。

「桎梏」の「桎」は足かせ、「梏」は手かせ。

つまり、人の行動を厳しく制限して自由を束縛するものということでしょう。「近代」というのは、自由を束縛された時代だったのでしょうか?

 

B:

そこで、まず「近代」という時代の定義を調べてみました。

ウィキペティアによると、

現在の政体国際社会の時代(現代)の一つ前の時代」というなっています。

でも、アジア史では、第二次世界大戦終結1945年)を境にして「近代」と「現代」に分けられています。また、ヨーロッパ史では、第一次世界大戦終結1918年)を境にして「近代」と「現代」に分けられいる場合が多いようです。

日本では一般に、明治維新以降〜第2次世界大戦までととらえるのがほぼ定説。でも、琉球史の観点から、アメリカ軍統治が終結した「沖縄の本土復帰」(1972年)を近代の終わりとする説もあるようです。

 

野野花:

父のこれまでの社会批評を読んでいると、明治維新以降、富国強兵の名のもとに日本は近代化を進めてきましたが、その過程は一般庶民にとって、自由を束縛してきた時代でもありました。父は、人の思考というのは、社会マニュアルに合わせるように仕向けられてきたと考えているのではないでしょうか?

前回読んだ『帝国の暗闇から』の下記の一文を思い出します。

 

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日本の近代化は体制のそれであって、そのまま民衆のあるいは思想の近代化ではない。むしろその富国強兵体制は前近代性の典型であって、幕末にマニファクチャーの興隆とともに確立されつつあった近代を、絶対制のもとに押し返したものに他ならなかった。

+++

 

A:

富国強兵の名の下で、近代を進む明治の文豪・夏目漱石。中国の近代文学の元祖といわれた魯迅。そして20世紀アメリカ文学の巨匠ウィリアム・カスバート・フォークナー。この3人の作家の書評を通じて、三人の作家が近代の中でどのような思想を展開していったのかを、岡庭先生は捉えようとしていたのかしら?

 

B:

そのヒントはあとがきの中に書かれているかもしれません。

あとがきから読み始めるのは怒られるかもしれませんが、あとがきの見出しは「ここから始まる あとがき」になっていて、「はじめに」とも思えるような「あとがき」で、この本を読むにあたっての指針みたいなものが綴られているんです。

 

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P261(最後の行から)

それをいい換えるなら漱石は欺瞞の自然を装った明治というという虚構の近代に直面し、その闇に対峙するゆえに謎の文学たらざるを得なかったのであり、儒教的封建と対峙した魯迅はその対極に求められた近代が、また帝国主義というその必然的な反面で民族と個人の矜持を暴力的に踏みにじる植民地の知識人でもあらざるを得なかった。「近代」を単純に「封建」というアンチテーゼに対するジンテーゼに置き換えることで足りることなどありえず、むしろ「近代」は深刻に疑わざるを得なかったのである。そしてフォークナーに至っては「近代」を根こそぎ否定する「悪」こそが、いっけん渇仰されるという変態的な擬態をとるほどに、近代は全面的に乗り越えられる対象出会った。そしてその先に持ち越され受け渡された思想的文学的宿題があるはずなのである。

 

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野野花:

漱石魯迅・フォークナー 桎梏としての近代を越えて』を読みながら、父の各作家への見方を感じ取り、それぞれの作品を読む。そんな新たな読書方法にトライしながら進めてみたいと思います?

 

父はこの本を書くのに6〜7年かかったようですので、読むのも少し時間はかかりそうですが…… おつきあいのほど、よろしくお願いいたします。

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