復刻『週刊 岡庭昇』

〜岡庭昇を因数分解する〜

第65回 2018年8月27日

 

こんにちは、岡庭野野花です。

 

先週から読み始めた『漱石魯迅・フォークナー 桎梏としての近代を超えて』のページを、あとがきではなく最初から読み進めます。

 

実在の文学 『それから』と『門』が提起するもの に入っていきますね。

 

A:

夏目漱石って中学生のころ『我が輩はネコである』や『ぼっちゃん』を課題図書として読みましたよね? この章では、晩年の作品、『それから』『門』『こころ』『道草』『明暗』に焦点をあてて書評を述べていますが、漱石の作品を「謎の文学」と位置づけているところにこの書評の骨子があるのではないでしょうか?

 

B:

少し読み始めてすぐに、漱石の文学を理解するためには、漱石の生きた時代と漱石の生い立ちをちゃんと知っておく必要を感じました。

まずは、一緒におさらいしてみたいと思います。

 

+++

 

漱石は、1867年2月9日慶応3年1月5日)に生まれます。本名は夏目金之助。父は、江戸牛込馬場下夏目小兵衛直克、母は千枝。末子(五男)でした。直克は江戸の牛込から高田馬場一帯を治めている名主で、生活も豊かだったようです。 

 

漱石が生まれた当時は明治維新後の混乱期で、生家は名主として没落しつつあったのでしょうか、生まれてすぐに四谷の古道具屋(一説には八百屋)に里子に出されますが、姉が不憫に思ってすぐに連れ戻したようです。

その後、1868年明治元年)11月、父・直克に書生同様にして仕えた塩原昌之助のところへ養子に出されています。しかし、養父・昌之助の女性問題が発覚するなど家庭不和になり9歳の時、生家に戻ったようですが、実父と養父の対立により21歳まで夏目家への復籍が遅れたようで、漱石の幼少時は波乱に満ちていました。

この養父には、漱石朝日新聞社に入社してから、金の無心をされるなど実父が死ぬまで関係が続きます。養父母との関係は、後の自伝的小説『道草』の題材になっています。12歳の時、東京府第一中学正則に入学するも、また漢学・文学を志すため2年ほどで中退したようです。漢学私塾二松學舍(現二松學舍大学)に入学しますが、ここも数か月で中退。長兄・大助は、文学を志すことに反対していたようです。2年後の1883年明治16年)、英語を学ぶため、神田駿河台の英学塾成立学舎に入学し、頭角をあらわして無事に大学予備門予科に入学。予備門時代の漱石は、「成立学舎」の出身者らを中心に、中村是公太田達人佐藤友熊橋本左五郎中川小十郎らとともに「十人会」を組織しています。そして、1889年明治22年)、漱石に多大な文学的・人間的影響を与えることになる俳人正岡子規と初めて出逢います。

以後、子規との交流は、漱石がイギリス留学中の1902年明治35年)に子規が没するまで続いたとのことです。

 

1890年明治23年)、創設して間もない帝国大学(後に東京帝国大学)英文科に入学。この頃から厭世主義神経衰弱に陥り始めたともいわれています。その後、松山中学、熊本の第五高等学校講師を経て英国に留学。帰国後1903年明治36年

に第一高等学校講師になり、東京帝国大学講師、1906年明治39年明治大学講師を兼任します。

 

その翌年には『我が輩は猫である』、翌々年に『坊っちゃん』を立て続けに発表します。1907年明治40年には教職を一切辞して朝日新聞に入社し、職業作家としての道を歩み始めます。こうして世に有名になると養父から金を無心される事件が起こります。この事件は『道草』の題材となります。その頃から胃潰瘍、酷いノイローゼに悩まされます。1909年(明治42年)『それから』、1910年(明治43年)には『門』を、 1914年大正3年)から朝日新聞に連載の『こころ』『道草』『明暗』書き続け、若くして49歳で生涯を終えます『明暗』が絶筆となりました。

長いおさらいになってしまいましたが、改めて、波乱万丈の人生だったと感じますね。

 

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