復刻『週刊 岡庭昇』

〜岡庭昇を因数分解する〜

第66回 2018年9月3日

こんにちは、岡庭野野花です。

先週は漱石の人生振り返りましたが、どんな風に感じたでしょうか。

B:

小説家として活躍していた時代はたった10年ですね? しかも精神的に病みながらもがき苦しんでいたような感じを受けました。漱石は、明治政府が生まれてイギリスをはじめとする諸外国に対抗するために富国強兵を推し進め、日清・日露戦争をするまで、明治政府がイケイケどんどんの時代を通じて、日常の中に何を見つめていたのでしょうか?

A:

それにしても始まり、〜実在の文学 『それから』と『門』が提起するもの〜として、夏目漱石を語るのはとても衝撃的です。どちらも人妻と恋におちるという姦通文学ですよね?

野野花:

父はここでも述べていますが、「肉体を感じることで実存である」ということを漱石評だけでなく、他の作品でも常に述べています。この章でも

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P28  

実存とは、つまりは肉体である。その端的な自覚からすべては始まる。そして肉体である自己を自覚するところから、わたしたちは自らの存在の一瞬の姿を、静止画として止めることが可能になる。美術や文学はそれを試みる。だが生の実態は休みなきダイナミズムであり、我々の生は現在の最前線である。最前線に立たされ、なによりもあるがままを生きる「当事者」である。

そして学問や文学は、この「自己が当事者であること」と中々に両立し難いだろう。人生を生きることより、認識するほうに重きを置く代助のような人物であれば、なおさら生きることと認識を同時に成立させるなど至難の技ということになるだろう。その矛盾に回答はない。だがそれは様々な真摯な努力が、この絶対矛盾を巡ってなされることを否定するものではない。

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A:

では、まずはそれぞれのあらすじをたどってみましょうか。

『それから』は、経済的に自立していない「高等遊民」だった主人公の代助が、思い人三千代の前途を思って自分が身を引き、真面目な友人平岡に委ね、三千代が幸せな結婚生活を送っていたと思いきや友人が部下の使い込みの責任をとり辞職し、仕事を失い、また勤め先が見つかったものの高利貸しから借金をする羽目となります。そして代助は三千代をこうした境遇においてしまった自責と父から政略結婚を薦められる状況の中で、三千代のことが好きである衝動をおさえきれず、三千代を平岡に譲ってもらうように頼みます。その経緯を平岡は代助の父に手紙でしたためることで代助は勘当となり兄弟からも絶縁を言い渡されるのです。そして、これまで「高等遊民」として世間と向き合ってこなかった代助は初めて愛する三千代のために世間と対峙することを決意します。

『門』も『それから』に続くような所謂禁断の愛を描いた姦通文学です。主人公・野中宗助は友人のかつての親友である安井の内縁の妻である御米と所帯を持ちます。人妻と所帯を持つという罪ゆえに、ひっそりと暮らす日々。妻を奪われた安井は満州に戻ります。宗助はその後もずっと罪の意識を持ち続けるというような内容です。


B:

この姦通小説って、今でいう昼ドラみたいなものでしょうか? でもその当時って姦淫罪があったのですよね?

A:

そもそも日本では、伝統的に姦通(あるいは不義密通、不倫)は重罪とされて、公事方御定書でも両者死罪の重罪でした。協力者もまた中追放か死罪だったようですよ。

明治13年に刑法で夫のある女子で姦通した者は、6ヶ月以上2年以下の重禁錮に処する。その女子と相姦した者も同様とするとされ、明治40年には夫のある女子が姦通したときは2年以下の懲役に処す。その女子と相姦した者も同じ刑に処するとなりました。第二次世界大戦後は刑事罰としての姦通罪は廃止されました。

 

B:

一般民衆に対しても興味を持たれたでしょうけど、そんな姦淫罪になるような話しを天下の朝日新聞の連載小説にするって、漱石の反国家的精神をあらわしているのかな? そんな風に読みとれないでしょうか。

 

野野花:

父は、この第1章、3節の「姦通という反国家」で述べています。5節は「不倫は性愛を伴うゆえに美しい」、さらに6節「ほんとうの罪」と続きます。

興味深い内容になりそうです。次回、紐解いていきますね。

 

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