第67回 2018年9月17日
こんにちは、岡庭野野花です。
災害の多かった夏が過ぎて、穏やかな秋の到来かと思いきや
朝鮮半島の大きな動き、そして日本の総裁選挙と息つく暇がありません。
が、父の本はたゆまずに読み進めています。
「謎の文学・漱石」から、「姦通という反国家」を読みます。
A:
そもそも、どうして「姦通」が「反国家」なんでしょうか?
B:
私は、そこに至る以前の問題で、「姦通」という言葉に引っかかりました。
「姦通」ってなんだろうと思って、まず最初に調べてみました。
A:
「姦通」は、明治時代に刑法に定められた犯罪ですよね。
B:
はい。旧刑法(明治13年太政官布告第36号、1882年1月1日施行)で、その353条に定められていました。
姦通罪は必要的共犯として、夫のある妻と、その姦通の相手方である男性の双方に成立するもので、夫を告訴権者とする親告罪なんです。ただ、夫が姦通を認めた場合は、告訴は無効とされるとのことですが、そんなことはなかなか考えられないでしょう。
内縁の夫のある女性、いわゆる「お妾さん」が、他の男子と私通しても姦通罪は成立しません。
一方で、正妻のある男が他の女性と私通しても姦通罪は成立しないので、お妾さんを何人持とうとも、外で浮気しようともまったく関係ない! これが刑法にあっただなんて。驚きです。
A:
戦後に日本国憲法において、男性にとって都合がいいだけの姦通罪は、男女平等に反するとしてなくなったけれど、人の好き嫌いという「情」までも、国家が統制していたということですね。
B:
漱石は、それに叛して、『それから』、そして『門』を朝日新聞に連載していくわけですね?
野野花:
父はどのように考えていたか、興味深いページがありました。
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P34
漱石の研究家吉田凞生(よしだ ひろお)は、良く配慮の行き届いた「『それから』解説」(岩波文庫)で、代助は「自然」の側に立つと正確に述べている。
<しかし、漱石は、心の奥で、「愛」の価値の源泉を、「神」でも近代西欧の個人主義でもなく、日本人らしく「自然」に求めていたように思われる。>
「自然」というキイワードは、漱石の叙述に頻出するわけではない。たかだか数回であろう。しかしそれは代助に、昴然と事態に立ち向かう勇気を与えるのである。やや哲学的、かつ宗教的だが、吉田は「本質」としてこの「自然」を指摘している。そして当時の刑法や、社会的常識からは悪でも、自然の人間論理からして、好きなものを好きだというのがなぜ悪なのかという昴揚をいい表している。
そして吉田のいう「本質としての自然」を、わたしの言い方では、「虚構としての自然」に転倒させる国家力学があった。すぐれて日本近代の国家力学として、支配のための自然の倒錯があった。これを文学のコントラストでいうと、自然は虚構に充ちた「規範としての自然」に転じてしまうという逆説である。
そういう意味において、これは明治の抵抗者、漱石の決定的な成長のきっかけでもある。代助の信念とは反対に、「世間」は騒然と二人を敵にした。だがここで作者は、重大な問いを発している。「世間」の倫理としてのこの「自明の理」は、はたしてほんとうだろうか。それは「国家の論理」を、あたかも「自然」のようにフィクションして強制しているのではないのか。つまり姦通は、国家に正面敵対する自由な精神の象徴となるのだ。
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野野花:
父は、漱石の話をしながら、もう一人の偉大な文学者として萩原朔太郎をあげています。続けて、荻原朔太郎に触れていきましょう。