復刻『週刊 岡庭昇』

〜岡庭昇を因数分解する〜

第69回 2018年10月22日

こんにちは、岡庭野野花です。

急に涼しくなりましたが、ごきげんいかがでしょうか。

 

さて、第1章の続き、

待ち伏せるもの ――『道草』から『明暗』へ――」を読み進めてまいりましょう。ここでは、『道草』を紐解いて漱石の文学を語っています。

 

A:

『道草』は、1915年6月から9月まで、朝日新聞に掲載した長編小説ですね。

 

B:

『我が輩は猫である』の執筆中の生活をもとにした、漱石自身の自伝として知られていて、主人公の「健三」は、漱石。金をせびりに来る「島田」は、養父の塩原昌之助といわれています。

 

野野花:

では今一度、漱石のプロフィールをおさらいしておきましょうか。

 

A:

そうですね。おいたちの複雑さは、小説を読み進める上でとても大切なポイントになりそうです。

生まれたのは、明治に元号が変わる前の年、1867年に、江戸牛込馬場下横町の名主の家に生まれました。現在の新宿区です。

 

B:

江戸の中心! そして本名の金之助って、なんで「金」なんだろうって思いますが、覚えやすい〜。

 

A:

お母さんがいわゆる高齢出産で、5人目の子どもとしてこの世に生まれて、あまり歓迎されなかったのでしょうね。生後4ヶ月で四谷のとある古道具屋の元に里子に出されます。

 

B:

古道具屋じゃなくて、八百屋という説もあるとか。

 

A:

その後、その里親があまり良くなくて実家に連れ戻されていたのですが、再び、塩原昌之助と妻・やすの養子として、夏目家から送り出されることに。

塩原昌之助もまた名主でした。塩原家には子どもがいなかったので、金之助が養子に出される運びとなったようです。

 

B:

幼少期に、行ったり来たり、時代も時代だったろうけれど、聞いているだけで金之助に同情しちゃいます。

 

A:

1872年(明治5年)、無事に養子の手続きが済んで、金之助は正式に塩原家の長男となったのですが、昌之助が日根野(ひねの)かつという人と不倫して、やすに連れられて家を出たものの、やすが離婚を決意したので、昌之助のもとに送り返されてしまうんです。

 

B:

金之助の実父・直克と、義父・昌之助は大げんかをして、金之助は結局、夏目家に戻るのんですよね。そして、夏目家と、養父・昌之助との関係は、これ以降なかなか難しかったということです。

 

A: 

養父・昌之助は子どもがなかったので、金之助を引き取ってから愛情をたっぷりと注いでいました。でも一方で、実父からは愛情をまったく受けずに育っています。ただ、養父・庄之助は、心の底からの愛情ではなく、自分が年老いた時、金之助に面倒を見てもらうものとして愛情を注いでいた。

 

B:

ますます金之助がかわいそうになりますが、かつて愛情を注いだその見返りとして、朝日新聞に連載をもつ作家・漱石を、金のむしんに尋ねて来るようになります。漱石がそんな養父を疎ましく思っていたのは、正直なところだと思わずにはいられません。

 

野野花:

『道草』を読み進めるとよくわかりますが、漱石は自分を取り巻く出来事における思いを、私小説として表現していったのでしょう。

その表現された思いを、父・岡庭昇は、

漱石の作品世界には、どこか不吉な「待ち伏せるもの」が存在する。特に後期の作品においてそれが顕著である。これは何を意味するのだろうか」と書いています。さらに、「 『道草』は戦慄的な作品である」 と。  

 

「それが私小説に繋がる作品であることは、多くの論者の指摘通りだろう。だが『明暗』に引き継がれる「謎」と「不気味さ」の方がわたしには印象される。

 

A:

それを、「待ち伏せるもの」としているのですね?

 

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