第70回 2018年11月5日
野野花:
はい。父は、次のように表現しています。
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P52
ここで「待ち伏せ」るのは「島田」という人物であって、いわばはっきりと強請りを企んで彼の前に登場したのである。島田は健三が子どものころ、一時期養父となったことがある。その後健三の父と不仲になり、健三の籍を戻して金を払ってそれで縁は切れた。
島田というのは、どこからどういう風に論じても、およそ立派なところがない人物である。それに加えて歴然たる落魄の色を滲ませて、健三の前に再登場するのである。
やがて彼は健三の家に出入りを始め、そのうちは当然のように金を要求するようになる。支払うべき義理が健三の側にあるわけではなく、むろん何か秘密を握られているのでもない。また、健三にも生活の余裕があるわけでもない。では、何ゆえに島田の強請り紛いの行為を、取り敢えずは許容するのか。
根本的には健三が、「過去」の総体からの叫門と、それにふさわしいものとしての「過去」の総体の悪しき「シンボル」が、島田なのである。それゆえ健三は、いったんは「罪」に対する「自責」総体のうちに、彼を含めるという間違いを犯すのだ。
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A:
うーん。「過去」の総体の悪しき「シンボル」ってどう受け取ったらいいのでしょう。
野野花:
父は『道草』の中から、下記のように読み解いています。
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P54
重要なのはもともと彼が、伝統的な庶民的無教養社会の出身者であるという一点だ。
それは必ずしも、劣性ばかりではないと思う。名門というほどではない町名主という出自は、一方で磨き抜かれた江戸文化の民衆的体現として、一種の文化エリートでもある。
それは健三にとって、否定スネき前近代の象徴だが、どうしようもなく健三に絡み付き、彼にそこからの脱出は可能かどうかを問い掛ける。
いや、さらに深くは、果たしてそこからの脱出は善なのか、という明治的な「過渡期」に特有な根本的な懐疑のうちに彼を囚えて放さない。
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B:
ふむふむ。でも、「伝統的な庶民的無教養社会の出身者」というのが、いったいどうして重要なのでしょうか?
A:
これについては、漱石がどのように明治維新をとらえていたのかを考察してみる必要がありそうですね?
B:
本当に。まさに今年のNHK大河ドラマ『西郷どん』でも、明治維新のそれぞれの考えの違いが出ていて興味深いと思っていたところです。