第12回 2017年3月21日
こんにちは、岡庭野野花です。
今年に入ってからずっと『亡国の予言』を読んできましたが、いよいよエピローグです。
然りを然り、否を否と言ってこそ民主主義
の小見出しに頷きながら、本文を追ってみました。
父はまず、作家・中園英助さんの『私本・GHQ占領秘史』(徳間書店)を引用しています。
「よいことはよい、悪いことは悪いというのは、何事も中途半端にする是々非々主義のようなものではない。上から下までイエス・ノーをハッキリいわないために、とうとう一億一心、大戦争にまで突っ込んで破滅してしまった」
そして、
「ここには、こんにちの鎖国ニッポンの本質につながる指摘がある。よいことをよいと言わず、悪いことを悪いと言わない〝システム〟こそが、鎖国モラトリアムを不変のものとする」
と書いています。
A:
やはり、鎖国モラトリアムにつながりますね。
「この国における戦後民主主義の出発とは、とりもなおさず〝一億総ざんげ〟にほかならなかった。今日の鎖国モラトリアムは、すでにそのとき決定されている。私たちの民主主義は、もともと然りを然り、否は否とは決して言わない、徹底して何事も中途半端にする精神から出発したのだった」
B:
民主主義について考えると、本当にさまざまな捉え方があってひと筋縄ではいかないね。〝一億総ざんげ〟だって、みんなで戦争責任を負うんだよというひとつの民主主義だと、岡庭氏は言っています。
A:
それって結局はだーれも責任を追わないってこと。だーれも戦争の責任を追わなかった国が、平和に対してどのようにも責任を負うわけがない!
B:
戦後民主主義とは、誰もが同じ顔、同じ制服、同じ意見、同じ思想を好んで、好むばかりか強制し合う。自粛や忖度(そんたく)も引き金となって……
あれれ? 民主主義はいずこに〜〜?
A:
あるのは、〝顔のない民主主義〟。民主主義って、市民1人1人の顔を見出そうとするものだったのにね。岡庭氏は、〝顔のない民主主義〟ほどグロテスクなものはないと表現していますが、吐き気がするほどグロテスクだと思う。
野野花:
だから、安倍のような総理が出て来るのでしょう。このままでは、たとえ安倍が変わろうと、日本は変わらないと思います。
「このような〝顔のない民主主義〟の〝システム〟を、わたしは〝和の強制力〟〝合意のファシズム〟と命名しておく。鎖国モラトリアムに沈没し、おのれの顔を消しておけば安全という考えるとすれば、それこそ大いなる錯覚にほかならない。(中略) 一度振り返ってみれば、亡国への軌跡はもはやあきらかなのに、団体行動の〝逸脱〟を恐れるあまり、ふり返ることさえ出来ない。
サラリーマン諸君、いいかげんにしたまえ。そろそろ鎖国モラトリアムを卒業しないと、行く着く先はほんとうに亡国の民だぜ。」
B:
そこそこ! 本書のサブタイトルにある叫び、「無知・無告の産業戦士なんかやめてしまえ!」ですね。痛快です。
B:
この叫びに、ほんの少しだけれど希望を感じます。いいえ、希望を持ちたいという方が正しいかしら。
野野花:
「顔のない民主主義という名の合意のファシズムを、みずからの身体を奪い返す過程のうちに、力をこめて突きくずそうではないか」
との文章で、エピローグは結ばれています。
A:
次のキーワードは、「みずから決め、みずから創り、みずから生くるものとしての社会」でしょうか。
野野花:
ええ、取り上げる本は、『自己決定力 ———人まかせの「生活大国」はない』にしたいと思います。
写真は、コブシの花です。