第35回 2017年9月25日
こんにちは、岡庭野野花です。
きょうは、今一度、当時のようすを振り返ってみます。
振り返るにあたっては、便利なWikipediaを開いて、
輪読みたいに読んでみましょう。ではAさんからどうぞ
A:
1994年(平成6年)6月の自由民主党・日本社会党・新党さきがけによる村山富市内閣の発足で下野した非自民・非共産勢力は、次期総選挙で施行される小選挙区比例代表並立制への対応に迫られていました。
小選挙区で自民党に対抗するためには野党各党が合流して各選挙区で候補者を1名に絞らなければならず、新・新党を結成する流れが一気に傾き、新生党・公明党の一部・民社党・日本新党・自由改革連合などが結集、同年12月10日、結党されました。理念は「自由、公正、友愛、共生」。
では、続きをBさんどうぞ。
B:
結成時の所属国会議員数は214人(衆議院176人、参議院38人)。
結党時の国会議員数が200人を超える政党が結成されたのは、1955年(昭和30年)結成の自民党以来、39年ぶりでした。
1996年(平成8年)10月の第41回衆議院総選挙では政権交代を目指し、野党第一党としては38年ぶりに衆議院議員定数の過半数の候補者を擁立。
消費税率を20世紀中は据え置くことや、減税およびそれに伴う経済の活性化による財政再建を公約の目玉にするも、解散前議席に届きませんでした。
A:
総選挙後、羽田・細川護煕らの離党や自民党による引き抜き工作により求心力を失いつつあった小沢執行部は、自民党との大連立構想、いわゆる保保連合構想を模索し、自民党内で自社さ派の加藤紘一・野中広務に対抗する保保派の梶山静六・亀井静香との関係強化を図りました。
しかし、これに対し、自民党に取り込まれると党内から反対論が吹き出し、小沢の求心力がさらに失う結果となりました。
B:
1997年(平成9年)11月、旧公明党のうち新進党に合流していない参議院議員・地方議員を中心とする政党・公明が合流を取りやめ、翌年夏の第18回参議院選挙に独自で臨むことを決定しました。
同年12月、小沢の任期満了に伴う党首選がは小沢と鹿野道彦元農水相の一騎討ちとなり、小沢が再選。小沢は純化路線に進むことを決断し、同月27日に両院議員総会を開いて新進党の分党と新党の結成を宣言。
これによって新進党は消滅して、自由党・改革クラブ・新党平和・新党友愛・黎明クラブ・国民の声の6党に分裂しました。
野野花:
お疲れさまでした。
そしてこの後、私たちが覚え切らないくらいにいろんな党が、泡のように出ては消え、出ては消えました。
二大政党という妄想を、私たちも考え直す時が来ているのだと思います。
今の状況を作っているのは政治家という専門家です。
父の言葉を借りるなら……
一党独裁と対立し、それを打倒し、入れ替わろうとする政治的な勢力は存在しないことが、ある意味ではあまりにも判然としています。
それでは、どのように考えるべきなのでしょうか?
父は、民衆運動としての創価学会を評価していました。
創価学会・公明党の政教分離な問題について父も重々承知していました。
その上であえて父が支持した理由が、
『「政治家という職業」こそは倒錯である』の章の最後に綴られています。
文中には「会派」と定義しています。
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P74
なぜこの会派を取り上げたかと言えば、代理人という発想を容易に実現出来るはずの選挙基盤を持ち、またそれを支援する民衆運動に応えるためにもそうでなければならないだろうからである。いずれにせよ、「政治家」と「代理人」の間に横たわる本質的な転倒こそ、わたしたち課題でなければなるまい。
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国の政治を、「政治家」という専門職に委ねるのではなく、私たちの「代理人」が行う日が来るのでしょうか?
ちなみにフランスでは、中道右派「共和党」、急進左派「左翼党」の二大政党がありますが、無所属のエマニュエル・マクロンが大統領となりました。
二大政党の出身ではなく、選挙も初めてという39歳です。
また、極端にいれば、米国トランプとて「政治家」ではないのです。
二大政党の政治家の時代から、私たちの「代理人」の時代が求められているのかもしれません。
ただそこに潜むポピュリズムについてもまた、私たちは注意を払う必要があるのかしらと、この父の一連の文章から考えさせられます。