復刻『週刊 岡庭昇』

〜岡庭昇を因数分解する〜

第37回 2017年10月16日

こんにちは、岡庭野野花です。

選挙戦も中盤です。町は、一層にぎやかになりそうです

 

A

選挙が告示されて、各政党は3極にわかれたけれど、私たちは選択しやすくなったのかしら?

 

B

「リベラル」や「保守」など、いろんな言葉が使われていて、言葉の意味そのものが、わかりにくいような気がします。

立憲民主党」の枝野代表は、

「保守とリベラルは対立概念ではありません…… ここにお集まりいただいている多くの皆さんが育ってきた時代、日本が輝いていたと言われた時代の、あの一億総中流と言われていた時代の、社会がこんなにギスギスしていなかった時代の、みんなが安心して暮らせていた時代の、日本社会を取り戻す。

私はリベラルであり、保守であります」と、言っているんだけど。

 

A:

2017105日付のデジタル毎日に、ずばり、

『「保守」「リベラル」って何?』との記事がありました。

 

 保守(保守主義)は、現状の制度や思想を尊重する立場。リベラルは英語の「自由な」に由来し、個人の自由を重んじて社会を変えていく立場で、欧米の歴史に根ざしている。ところが、今の日本で保守を代表する自民党は、日本国憲法が敗戦で押しつけられたものだとして伝統を重視する自主憲法制定を主張。安倍晋三首相が憲法改正を目指す。これに対し、戦後の基本的人権や平和主義に価値を置くリベラルの側は自民の改憲路線に反対しており、立場が逆転している。成田憲彦・駿河台大名誉教授によると、日本のリベラルのルーツは戦後の革新勢力にある。自由主義諸国とソ連など社会主義諸国の「東西冷戦」のもと、日本で1955年に自民党が誕生。社会党との与野党対決構図が続いた。労働組合の後ろ盾で護憲や反安保を訴える野党勢力は「革新」と呼ばれた。

成田さんは「革新勢力は社会主義を理想としたが、90年前後の社会主義陣営の瓦解(がかい)で退潮した。今のリベラルは『革新マイナス社会主義』で人権・平和の理念を掲げている」と話す。

自民党にも昔からリベラル派がおり、今は岸田文雄政調会長の率いる岸田派(宏池会)がそう目される。成田さんは「安全保障環境の変化などで自民党が右傾化しているが、国民の5割は改憲に反対だ。保守色が強まる国政の空白を埋める形で立憲民主が伸びる要素もある」とみる。

 一方、国際医療福祉大の川上和久教授(政治心理学)は「社会民主主義を掲げる欧州のリベラル政党は福祉を重視し、大きな政府を志向する。それには税負担が欠かせない」とした上で、「日本のリベラル勢力は福祉重視を訴えても必要な負担増をこれまで国民にきちんと求めてこなかった」と指摘する。「リベラル色を出そうと外交安保分野で政権批判を繰り広げてきたが、高負担を前提とする現実的な社会像を描き、保守勢力との対立軸として国民に示せるかどうかが、今後の試金石となる」と話す。

 

野野花:

父は、『かくもさまざまな言論操作』の中で次のようにも述べています。

 

+++

 

P190

 

 民主主義ということについて、あたらめて根本から考え直す必要があるように思える。どうしてことさらそんなことを言うのかと、不思議に思う人もいるかも知れない。日本は民主主義の国家であり、民主主義は自明の原理であるはずだ。それなのに、いまさら変なことを言いだすものだ、と。

 だが、はたしてそうだろうか。「自明な前提」ということにかえって欺かれて、じつは日本の民主主義について基本から再検討することを、わたしたちは怠っているのではないだろうか。そういう風に考えると、これほど欺瞞的なものもないのではないだろうか。

 

 なによりも軽薄な経済主義への反省を前提にしなければならない。いわばポスト・バブルの時代は、ある意味ではプリミティブなものを大事にする時代であるとも言える。プリミティブなものを大事にして、それをプリミティブな思考や感性においてとらえる。プリミティブというのは素朴と言ったほどの意味だが、また基本という意味でもあるだろう。

 

 日本ははたして、民主主義の国なのだろうか。この問いを、わたしはきわめてプリミティブに言っている。自明なものを「素朴に」「基本的に」問い返せば、実はあらためてその欺瞞に気がつく。

 そうであるなら、この場合は「自明」なことこそがもっとも疑わしいのだ。そしてそれは、どうやら「作られた自明」とでも言うべきものであって、自明であることによって民衆を欺くトリックになっている。権力が、意図してそうし向けているのである。

 

さらにページ進めて……

 

+++

 

P192

 

  ふたたび「素朴と基本」の立場から言うなら、いったい誰にとっての、誰のための、誰によって担われる民主主義なのか。問われるべき本質はまさにそこにある。民主主義がファッシズムの手段になるなど、いくら欺瞞としても腹立たしいかぎりではないか。

 そのような事態を改めていきたいために、わたしたち市民は、民主主義という概念をまさに自前のものとしていかなければならない。わたしたち自身によって担われる以外のものではないという覚悟を、持たなければならないのである。

 そのようなものとしての民主主義を、私は共生的民主主義と呼んでおきたい。

A/B:

なんと! 共生的民主主義ですか? 

今回の選挙はあらためて、「素朴に民主主義について私たちも基本から再検討する」、とってもいい機会なのかも?

 

野野花:

そのためにどうするべきなのかを、次回の編集会議で話ましょう。

 

みなさん、棄権せずに、投票に行きましょう。

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