復刻『週刊 岡庭昇』

〜岡庭昇を因数分解する〜

第63回 2018年6月11日

こんにちは、岡庭野野花です。

 

続きを読んでいきますが、教育について取り上げている箇所が印象的です。

 

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P241

体制はこの130年間、戦術を多少変えることはあっても、一貫してひとつの路線で形成されてきた。そこになにも屈折がない。いわば「富国強兵」一点張りの体制である。

 

P242

すべての物理的な側面での支配が、この租税の集中・分散に尽きているとすれば、後の二つはその援用としての集中・分散である。

「使える人材」を使って、もっといえばマニュアルを疑い無く「自然」に受け入れる「人材」を形成して、しかる後に企業に「分配」する。つまり教育における「集中・分散」に他ならない。

 

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A:

『マニュアルを疑いなく「自然」に受け入れる「人材」を形成して、しかる後に企業に「分配する」』って、とても重たいです。

 

B:

わたしは、なにも知らないまま、分配された人材かもしれません。

 

野野花:

教育のあり方についてずっと疑問に思っていました。

モラルハザード」ともいえる今の状態でも、なんだか変わらないことに無力感を感じる日々です。が、教育はやはり重要だと思います。

 

B:

教育の意味のとらえ方が間違っているような気がします。

 

A:

それはもう紛れもなく間違っているでしょう。

 

野野花:

本著では「ゆとり教育」についても語られています。

 

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P257

ゆとり教育の真の狙いとは、使う人間と使われる人間の一層徹底した固定化というわけか。かつての教育審議会を牛耳った人物で、もともと右翼的な言辞で知られる作家、三浦朱門はもっと正直である。

 

《できん奴はできんままで結構。戦後50年、落ちこぼれの底辺を上げることばかり注いできた労力を、できる者を限りなく伸ばすことに振り向ける。100人に一人でいい、やがて彼らが国を引っ張っていきます。限りなくできない非才、無才には、せめて実直な精神だけを養ってもらえばいいんです。(略)それが「ゆとり教育」の本当の目的。エリート教育とは言いにくい時代だから、回りくどく言っただけの話だ》

 

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A:

ちょっとカチンときます。

けれど、「ゆとり教育」も約18年を経て否定されました。

 

B:

そして、海外に追いつくために英語教育だののプログラミング教育だのと鉾先が変わってきています。

 

A:

教育の根幹が相変わらず海外に追いつけ、追い越せ! 明治の頃からまったく変わっていないのには、笑ってしまいますね。

 

B:

では、私たちはどうするべきなのでしょうか。

 

野野花:

本書の最後に父は結論らしいものにたどりついたとして書いています。

第4節 人々の「連帯」としての資本主義の章です。

私たちは資本主義を金儲けとしか捉えていないけど、実際は異なるという原点回帰を唱えているのです。

 

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P252

 資本主義とは何か。その基本概念は、たとえば知られているようにマックス・ウェーバープロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(1905年)によって示された。その基本はキリスト教、特にプロテスタントの考え方とそれが分かち難く一体であるというもので、これはただ儲かれば良いという「無信仰国家」日本の考えとは、基本から違っているのだ。

 

P266

人々の「競争」のための経済ではなく、「連帯」としてのそれに発想を変えなければならない。

 

P267

わたしたちが批判的な実在、あるいは分析的な情念を生きようとするとき、その基底のひとつの覚悟として「競争」ではなく「連帯」としての経済がある。

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まさに、21世紀は共創の時代と言われます。

実際これまで我々が中心にしてきた右上がりを中心にしてきた時代からあらためて「連帯」へと発想を変えるということを、2004年の父の文章が示唆しているような気がします。

 

それにしても今の時代を読むのにとても示唆に富み、今の時代を歴史的に読み解くのにとても参考になる本でしたね。

次回から何を読むかまた会議をしながら決めていきたいのですが、父の思想の根底となっている「漱石」「魯迅」「フォークナー」の文学評価から読み解くのも良いかなと思っています。

 

『帝国の暗闇から』は、今日でゴールです。

 

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