復刻『週刊 岡庭昇』

〜岡庭昇を因数分解する〜

第71回 2018年11月19日

こんにちは、岡庭野野花です。

 

最近、面白い論文を見つけました。

著者は、木村時夫という日本の政治史学者です。

今日はまず、この中の文章をご紹介いたします。

 

夏目漱石におけるナショナルなもの

 ――その文学観・文明観を中心として――」の中の、

「明治の知識人 漱石」の一部です。

 

 

日本が世界から孤立した鎖国政策を一擲(いってき)して開国に転じたのは、圧倒的優位をしめる西洋文明の進攻の前にそうせざるを得なかったのである。すなわち、国を開いて西欧文明を摂取し、日本自らが西欧諸国と比肩するに足る国力をもたぬ以上、国家そのものの独立を維持し得ないことを自覚したからである。

西欧文明の摂取は国家の存立をかけた、国民的使命として受容されたのである。しかし、明治人の宿命は単なる西欧文明の摂取に留まらなかった。

なぜならば近代国家として国際社会に仲間入りするために必要な西欧文明は、固有な日本文明の 変質をもたらすからである。

日本文明が異質文明の影響の下に変質し等質化することが、日本の将来にとってどのような意味をもつか。日本の伝統をふまえての西欧文明摂取の方法はないものか。これらが明治知識人に共通の課題となったからである。

 

(中略)

 

このことは明治の日本人のヨーロッパへの留学という事実にも見られる。というのは文学者でいえば漱石も鴎外も、ひとしくヨーロッパに留学しているが、彼らの留学は決してその知識や思想の西欧化をもたらさなかった。その留学は日本的なものと西欧的なものとの対決、すなわち摂取なければならぬ西欧文明の影響下において、日本の将来をどのような方向に位置づけ、日本的なものをいかに保持しなければならぬかという、苦悩にみちた一時期であった。

 

 

野野花:

いかがでしょう。興味を持っていただけましたでしょうか。

 

では、父の本に戻ります。つながる部分として父は、<『道草』は原罪の文学である>で、このように述べています。

 

+++

P55

「嫌悪する自分を嫌悪する」という、この鋭敏な感覚。それがここでのテーマであり、同時に確認された明治の本質的な「違和」に他ならないのであろう。

 

自分は旧来の江戸文化を(その主体たる江戸庶民を)脱出した。

それは、新文化に対応し得る知恵の産物であり、洋行も自分の才能で獲得し得たものである。だから、江戸庶民への嫌悪も当然だ。こんな風に割り切って自己肯定できるような感性だったら、特に苦悩にもならぬ苦悩だろう。

だが反対にその裂け目にこそ、避けられない苦悩を抱えてしまうところに健三の真の誠実さがある。

+++

 

さらに

 

+++

P 61

明治という転換期のふりをした予定調和と規範が支配する時代。何よりもその支配原理は、近代と前近代の優劣を会えて語らないまま自明とし、転換期そのものの真贋を見据えることをさせなかった。

先行する近代という規範にニセの時代価値を与えた。あるがままな実在を封印して、新時代を領導するこの欺瞞が、究極のところ主役たるべき「洋行帰り」の健三を、落ち着いて心身を置くべき場所がこの世の何処にもないという気持ちにさせる。この不安にこそ、明治の優れた知性によるもっとも良質な日本近代批判がある。

 

+++

 

A:

うわ〜! 漱石の作品が、明治維新に始まる日本近代化の批判に繋がるとは思ってもみませんでした。

 

B:

本当に。中学高校時代に夏目漱石を読んだ時、明治維新に対しての文学者の立場がどうかと考えるなんて、まるで発想がありませんでした。

 

野野花:

父の漱石評は、このあとに綴られてる

「維新か御一新か ――漱石の抵抗――」に引き続かれていきます。

 

次回は、この章を読み進めつつ、漱石を通して「明治」という時代をのぞいてみようと思います。

 

写真は、漱石ゆかりの地「愚陀仏庵」(松山市・2010年に倒壊、再建協力を呼びかけているという)。

 

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第70回 2018年11月5日

野野花:

はい。父は、次のように表現しています。

 

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P52

ここで「待ち伏せ」るのは「島田」という人物であって、いわばはっきりと強請りを企んで彼の前に登場したのである。島田は健三が子どものころ、一時期養父となったことがある。その後健三の父と不仲になり、健三の籍を戻して金を払ってそれで縁は切れた。

島田というのは、どこからどういう風に論じても、およそ立派なところがない人物である。それに加えて歴然たる落魄の色を滲ませて、健三の前に再登場するのである。

やがて彼は健三の家に出入りを始め、そのうちは当然のように金を要求するようになる。支払うべき義理が健三の側にあるわけではなく、むろん何か秘密を握られているのでもない。また、健三にも生活の余裕があるわけでもない。では、何ゆえに島田の強請り紛いの行為を、取り敢えずは許容するのか。

根本的には健三が、「過去」の総体からの叫門と、それにふさわしいものとしての「過去」の総体の悪しき「シンボル」が、島田なのである。それゆえ健三は、いったんは「罪」に対する「自責」総体のうちに、彼を含めるという間違いを犯すのだ。

 

+++

 

A:

うーん。「過去」の総体の悪しき「シンボル」ってどう受け取ったらいいのでしょう。

 

野野花:

父は『道草』の中から、下記のように読み解いています。

 

+++

P54

重要なのはもともと彼が、伝統的な庶民的無教養社会の出身者であるという一点だ。

それは必ずしも、劣性ばかりではないと思う。名門というほどではない町名主という出自は、一方で磨き抜かれた江戸文化の民衆的体現として、一種の文化エリートでもある。

それは健三にとって、否定スネき前近代の象徴だが、どうしようもなく健三に絡み付き、彼にそこからの脱出は可能かどうかを問い掛ける。

いや、さらに深くは、果たしてそこからの脱出は善なのか、という明治的な「過渡期」に特有な根本的な懐疑のうちに彼を囚えて放さない。

 

+++

 

B:

ふむふむ。でも、「伝統的な庶民的無教養社会の出身者」というのが、いったいどうして重要なのでしょうか?

 

A:

これについては、漱石がどのように明治維新をとらえていたのかを考察してみる必要がありそうですね?

 

B:

本当に。まさに今年のNHK大河ドラマ西郷どん』でも、明治維新のそれぞれの考えの違いが出ていて興味深いと思っていたところです。

 

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第69回 2018年10月22日

こんにちは、岡庭野野花です。

急に涼しくなりましたが、ごきげんいかがでしょうか。

 

さて、第1章の続き、

待ち伏せるもの ――『道草』から『明暗』へ――」を読み進めてまいりましょう。ここでは、『道草』を紐解いて漱石の文学を語っています。

 

A:

『道草』は、1915年6月から9月まで、朝日新聞に掲載した長編小説ですね。

 

B:

『我が輩は猫である』の執筆中の生活をもとにした、漱石自身の自伝として知られていて、主人公の「健三」は、漱石。金をせびりに来る「島田」は、養父の塩原昌之助といわれています。

 

野野花:

では今一度、漱石のプロフィールをおさらいしておきましょうか。

 

A:

そうですね。おいたちの複雑さは、小説を読み進める上でとても大切なポイントになりそうです。

生まれたのは、明治に元号が変わる前の年、1867年に、江戸牛込馬場下横町の名主の家に生まれました。現在の新宿区です。

 

B:

江戸の中心! そして本名の金之助って、なんで「金」なんだろうって思いますが、覚えやすい〜。

 

A:

お母さんがいわゆる高齢出産で、5人目の子どもとしてこの世に生まれて、あまり歓迎されなかったのでしょうね。生後4ヶ月で四谷のとある古道具屋の元に里子に出されます。

 

B:

古道具屋じゃなくて、八百屋という説もあるとか。

 

A:

その後、その里親があまり良くなくて実家に連れ戻されていたのですが、再び、塩原昌之助と妻・やすの養子として、夏目家から送り出されることに。

塩原昌之助もまた名主でした。塩原家には子どもがいなかったので、金之助が養子に出される運びとなったようです。

 

B:

幼少期に、行ったり来たり、時代も時代だったろうけれど、聞いているだけで金之助に同情しちゃいます。

 

A:

1872年(明治5年)、無事に養子の手続きが済んで、金之助は正式に塩原家の長男となったのですが、昌之助が日根野(ひねの)かつという人と不倫して、やすに連れられて家を出たものの、やすが離婚を決意したので、昌之助のもとに送り返されてしまうんです。

 

B:

金之助の実父・直克と、義父・昌之助は大げんかをして、金之助は結局、夏目家に戻るのんですよね。そして、夏目家と、養父・昌之助との関係は、これ以降なかなか難しかったということです。

 

A: 

養父・昌之助は子どもがなかったので、金之助を引き取ってから愛情をたっぷりと注いでいました。でも一方で、実父からは愛情をまったく受けずに育っています。ただ、養父・庄之助は、心の底からの愛情ではなく、自分が年老いた時、金之助に面倒を見てもらうものとして愛情を注いでいた。

 

B:

ますます金之助がかわいそうになりますが、かつて愛情を注いだその見返りとして、朝日新聞に連載をもつ作家・漱石を、金のむしんに尋ねて来るようになります。漱石がそんな養父を疎ましく思っていたのは、正直なところだと思わずにはいられません。

 

野野花:

『道草』を読み進めるとよくわかりますが、漱石は自分を取り巻く出来事における思いを、私小説として表現していったのでしょう。

その表現された思いを、父・岡庭昇は、

漱石の作品世界には、どこか不吉な「待ち伏せるもの」が存在する。特に後期の作品においてそれが顕著である。これは何を意味するのだろうか」と書いています。さらに、「 『道草』は戦慄的な作品である」 と。  

 

「それが私小説に繋がる作品であることは、多くの論者の指摘通りだろう。だが『明暗』に引き継がれる「謎」と「不気味さ」の方がわたしには印象される。

 

A:

それを、「待ち伏せるもの」としているのですね?

 

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第68回 2018年10月1日

こんにちは、岡庭野野花です。

 

父が漱石とつなげて触れている荻原朔太郎について、みなさんはご存知でしょうか。

 

A:

夏目漱石は、1867年2月9日(慶応3年1月5日)生まれ、1916年(大正5年)12月9日没。荻原朔太郎は、1886年明治19年)11月1日生まれ、1942年(昭和17年)5月11日没。生きた時代が重なっていますね。

 

B:

萩原朔太郎って大正から昭和にかけて活躍した歌人だという印象でした。

 

A:

群馬県の開業医の息子として生まれたけれど医者は継がずに、子どもの頃から病弱だったこともあって孤独を好むタイプだったようです。一人でハーモニカ手風琴などを楽しんだとのこと。小学校を卒業して、従兄弟に短歌を教わって与謝野鉄幹主宰の『明星』に短歌が三首掲載されて、石川啄木らと一緒に「新詩社」の同人となったそうです。学校へ行くと言って家を出ても、学校へは行かずに野原で寝転んだり、森や林の中を歩きまわったり、学校へ行ったとしても授業は上の空。結局、中学で落第。学校を転々として、人生がまったく定まらない日々を送っていたようです。

 

B:

なんて自由人なこと! 急に親しみが湧いてきました。

 

野野花

父は、朔太郎について、このように書いています。

+++

P37

ちなみに朔太郎の親子関係は、そのまま明治という神話の典型でもあった。父は、東大医学部第一期卒業生という、新時代を担うエリートだった。強い生活者であり、社会的成功者だった。大阪出身だが、卒業後前橋に移って旧家老の娘を嫁にもらい、地元で名士として扱われる開業医だった。それに対して朔太郎は道が定まらぬ道楽息子で、近所隣に嘲られる存在だった。その負い目をそのまま帝国への、言葉による反逆に転化し得たとき、彼の自我はやっと定まった。

それは同時に体制の押しつける自明な日常、つまり自然を称するところのその実はとこ富国強兵の理論と正面から闘うことでもあった。朔太郎の、詩人としての闘いがそこに始まった。

 

A:

「闘い」なのですね。岡庭昇は、

〜もう一人の偉大な文学者が、「姦通」を媒介して日本の「近代」という体制的な虚構に立ち向かう。処女作『みちゆき』、後に『夜汽車』と改題されて、詩集『純情小曲集』に収められた。朔太郎は、この登場作を27歳で書いた。当時の詩人の出発としては例外的な遅さである〜

と書いていらっしゃいました。

 

野野花:

父は、この『みちゆき』のについて次のように書いています。

 

+++

P37

ただフィクションにせよ、姦通を媒介としたとき初めて朔太郎が、ブルジョアの道楽息子と近隣に謗られていた状態から、「詩」に突き抜けることができたということが重要である。それをいいかえるなら、言葉は「姦通」という「罪」を媒介して抵抗になり得、かつ表現たり得た。内なる帝国を探り当てた、ということでもある。

 

B:

朔太郎も漱石も、明治という時代において自分の居場所がなかったんですね。それを文学作品を通じて昇華していったということでしょうか?

 

A;

漱石の『道草』は、彼のその当時の生活がモデルだということです。

 

B:

つまり、漱石の人生もまたなかなか定まらなかったと想像できますね。

 

A:

漱石も精神的にとてもデリケートで、ノイローゼに陥り、それゆえに胃潰瘍を煩い、だんだん衰弱していって、ついには精神的なことが理由で若くして亡くなりましたから。

 

野野花:

「抵抗者・漱石」のページを開いて見てください。漱石の精神について、とてもわかりやすい記述があるんです。

 

+++

P38

ちなみに留学中の漱石のよく知られたノイローゼを、西欧コンプレックスからのみ説明することにわたしは批判的である。むしろそれは留学に伴って、維新後の日本の近代の体制が含む幻想に、漱石が覚醒したための「憂鬱」たったのではないか。

P39

明治の現世において、積極的に何ものかであることを望まないということは、明らかに意思的な抵抗たり得た。そこでは「参加」がそのままで、富国強兵の論理に「自然」に引き摺り込まれるというカラクリが否定された。

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A:

今の時代もまた息苦しいです。これからさらにもっと息苦しくなるでしょう。漱石や朔太郎が今生きていたら、きっとかのような作品を書いているでしょうね?

 

野野花:

私もそんなことを考えてしまいます。

次回は、「待ち伏せるもの 『道草』から『明暗』へ」の章を読み進めていきたいと思います。

 

あらあら、読むべき本が山積みになっていく秋ですね。

季節の変わり目、みなさまどうぞお体ご自愛くださいませ。

 

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第67回 2018年9月17日

こんにちは、岡庭野野花です。

災害の多かった夏が過ぎて、穏やかな秋の到来かと思いきや

朝鮮半島の大きな動き、そして日本の総裁選挙と息つく暇がありません。

が、父の本はたゆまずに読み進めています。

 

今日は、『漱石魯迅・フォークナー』の第一章、

「謎の文学・漱石」から、「姦通という反国家」を読みます。

 

 

A:

そもそも、どうして「姦通」が「反国家」なんでしょうか?

 

B:

私は、そこに至る以前の問題で、「姦通」という言葉に引っかかりました。

「姦通」ってなんだろうと思って、まず最初に調べてみました。

 

A:

「姦通」は、明治時代に刑法に定められた犯罪ですよね。

 

B:

はい。旧刑法明治13年太政官布告第36号、1882年1月1日施行)で、その353条に定められていました。

姦通罪は必要的共犯として、夫のある妻と、その姦通の相手方である男性の双方に成立するもので、夫を告訴権者とする親告罪なんです。ただ、夫が姦通を認めた場合は、告訴は無効とされるとのことですが、そんなことはなかなか考えられないでしょう。

内縁の夫のある女性、いわゆる「お妾さん」が、他の男子と私通しても姦通罪は成立しません。

一方で、正妻のある男が他の女性と私通しても姦通罪は成立しないので、お妾さんを何人持とうとも、外で浮気しようともまったく関係ない! これが刑法にあっただなんて。驚きです。

 

A:

戦後に日本国憲法において、男性にとって都合がいいだけの姦通罪は、男女平等に反するとしてなくなったけれど、人の好き嫌いという「情」までも、国家が統制していたということですね。

 

B:

漱石は、それに叛して、『それから』、そして『門』を朝日新聞に連載していくわけですね?

 

野野花:

父はどのように考えていたか、興味深いページがありました。

 

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P34

 漱石の研究家吉田凞生(よしだ ひろお)は、良く配慮の行き届いた「『それから』解説」(岩波文庫)で、代助は「自然」の側に立つと正確に述べている。

 

<しかし、漱石は、心の奥で、「愛」の価値の源泉を、「神」でも近代西欧の個人主義でもなく、日本人らしく「自然」に求めていたように思われる。>

 

「自然」というキイワードは、漱石の叙述に頻出するわけではない。たかだか数回であろう。しかしそれは代助に、昴然と事態に立ち向かう勇気を与えるのである。やや哲学的、かつ宗教的だが、吉田は「本質」としてこの「自然」を指摘している。そして当時の刑法や、社会的常識からは悪でも、自然の人間論理からして、好きなものを好きだというのがなぜ悪なのかという昴揚をいい表している。

 

そして吉田のいう「本質としての自然」を、わたしの言い方では、「虚構としての自然」に転倒させる国家力学があった。すぐれて日本近代の国家力学として、支配のための自然の倒錯があった。これを文学のコントラストでいうと、自然は虚構に充ちた「規範としての自然」に転じてしまうという逆説である。

 

そういう意味において、これは明治の抵抗者、漱石の決定的な成長のきっかけでもある。代助の信念とは反対に、「世間」は騒然と二人を敵にした。だがここで作者は、重大な問いを発している。「世間」の倫理としてのこの「自明の理」は、はたしてほんとうだろうか。それは「国家の論理」を、あたかも「自然」のようにフィクションして強制しているのではないのか。つまり姦通は、国家に正面敵対する自由な精神の象徴となるのだ。

 

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野野花:

父は、漱石の話をしながら、もう一人の偉大な文学者として萩原朔太郎をあげています。続けて、荻原朔太郎に触れていきましょう。

 

 

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第66回 2018年9月3日

こんにちは、岡庭野野花です。

先週は漱石の人生振り返りましたが、どんな風に感じたでしょうか。

B:

小説家として活躍していた時代はたった10年ですね? しかも精神的に病みながらもがき苦しんでいたような感じを受けました。漱石は、明治政府が生まれてイギリスをはじめとする諸外国に対抗するために富国強兵を推し進め、日清・日露戦争をするまで、明治政府がイケイケどんどんの時代を通じて、日常の中に何を見つめていたのでしょうか?

A:

それにしても始まり、〜実在の文学 『それから』と『門』が提起するもの〜として、夏目漱石を語るのはとても衝撃的です。どちらも人妻と恋におちるという姦通文学ですよね?

野野花:

父はここでも述べていますが、「肉体を感じることで実存である」ということを漱石評だけでなく、他の作品でも常に述べています。この章でも

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P28  

実存とは、つまりは肉体である。その端的な自覚からすべては始まる。そして肉体である自己を自覚するところから、わたしたちは自らの存在の一瞬の姿を、静止画として止めることが可能になる。美術や文学はそれを試みる。だが生の実態は休みなきダイナミズムであり、我々の生は現在の最前線である。最前線に立たされ、なによりもあるがままを生きる「当事者」である。

そして学問や文学は、この「自己が当事者であること」と中々に両立し難いだろう。人生を生きることより、認識するほうに重きを置く代助のような人物であれば、なおさら生きることと認識を同時に成立させるなど至難の技ということになるだろう。その矛盾に回答はない。だがそれは様々な真摯な努力が、この絶対矛盾を巡ってなされることを否定するものではない。

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A:

では、まずはそれぞれのあらすじをたどってみましょうか。

『それから』は、経済的に自立していない「高等遊民」だった主人公の代助が、思い人三千代の前途を思って自分が身を引き、真面目な友人平岡に委ね、三千代が幸せな結婚生活を送っていたと思いきや友人が部下の使い込みの責任をとり辞職し、仕事を失い、また勤め先が見つかったものの高利貸しから借金をする羽目となります。そして代助は三千代をこうした境遇においてしまった自責と父から政略結婚を薦められる状況の中で、三千代のことが好きである衝動をおさえきれず、三千代を平岡に譲ってもらうように頼みます。その経緯を平岡は代助の父に手紙でしたためることで代助は勘当となり兄弟からも絶縁を言い渡されるのです。そして、これまで「高等遊民」として世間と向き合ってこなかった代助は初めて愛する三千代のために世間と対峙することを決意します。

『門』も『それから』に続くような所謂禁断の愛を描いた姦通文学です。主人公・野中宗助は友人のかつての親友である安井の内縁の妻である御米と所帯を持ちます。人妻と所帯を持つという罪ゆえに、ひっそりと暮らす日々。妻を奪われた安井は満州に戻ります。宗助はその後もずっと罪の意識を持ち続けるというような内容です。


B:

この姦通小説って、今でいう昼ドラみたいなものでしょうか? でもその当時って姦淫罪があったのですよね?

A:

そもそも日本では、伝統的に姦通(あるいは不義密通、不倫)は重罪とされて、公事方御定書でも両者死罪の重罪でした。協力者もまた中追放か死罪だったようですよ。

明治13年に刑法で夫のある女子で姦通した者は、6ヶ月以上2年以下の重禁錮に処する。その女子と相姦した者も同様とするとされ、明治40年には夫のある女子が姦通したときは2年以下の懲役に処す。その女子と相姦した者も同じ刑に処するとなりました。第二次世界大戦後は刑事罰としての姦通罪は廃止されました。

 

B:

一般民衆に対しても興味を持たれたでしょうけど、そんな姦淫罪になるような話しを天下の朝日新聞の連載小説にするって、漱石の反国家的精神をあらわしているのかな? そんな風に読みとれないでしょうか。

 

野野花:

父は、この第1章、3節の「姦通という反国家」で述べています。5節は「不倫は性愛を伴うゆえに美しい」、さらに6節「ほんとうの罪」と続きます。

興味深い内容になりそうです。次回、紐解いていきますね。

 

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第65回 2018年8月27日

 

こんにちは、岡庭野野花です。

 

先週から読み始めた『漱石魯迅・フォークナー 桎梏としての近代を超えて』のページを、あとがきではなく最初から読み進めます。

 

実在の文学 『それから』と『門』が提起するもの に入っていきますね。

 

A:

夏目漱石って中学生のころ『我が輩はネコである』や『ぼっちゃん』を課題図書として読みましたよね? この章では、晩年の作品、『それから』『門』『こころ』『道草』『明暗』に焦点をあてて書評を述べていますが、漱石の作品を「謎の文学」と位置づけているところにこの書評の骨子があるのではないでしょうか?

 

B:

少し読み始めてすぐに、漱石の文学を理解するためには、漱石の生きた時代と漱石の生い立ちをちゃんと知っておく必要を感じました。

まずは、一緒におさらいしてみたいと思います。

 

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漱石は、1867年2月9日慶応3年1月5日)に生まれます。本名は夏目金之助。父は、江戸牛込馬場下夏目小兵衛直克、母は千枝。末子(五男)でした。直克は江戸の牛込から高田馬場一帯を治めている名主で、生活も豊かだったようです。 

 

漱石が生まれた当時は明治維新後の混乱期で、生家は名主として没落しつつあったのでしょうか、生まれてすぐに四谷の古道具屋(一説には八百屋)に里子に出されますが、姉が不憫に思ってすぐに連れ戻したようです。

その後、1868年明治元年)11月、父・直克に書生同様にして仕えた塩原昌之助のところへ養子に出されています。しかし、養父・昌之助の女性問題が発覚するなど家庭不和になり9歳の時、生家に戻ったようですが、実父と養父の対立により21歳まで夏目家への復籍が遅れたようで、漱石の幼少時は波乱に満ちていました。

この養父には、漱石朝日新聞社に入社してから、金の無心をされるなど実父が死ぬまで関係が続きます。養父母との関係は、後の自伝的小説『道草』の題材になっています。12歳の時、東京府第一中学正則に入学するも、また漢学・文学を志すため2年ほどで中退したようです。漢学私塾二松學舍(現二松學舍大学)に入学しますが、ここも数か月で中退。長兄・大助は、文学を志すことに反対していたようです。2年後の1883年明治16年)、英語を学ぶため、神田駿河台の英学塾成立学舎に入学し、頭角をあらわして無事に大学予備門予科に入学。予備門時代の漱石は、「成立学舎」の出身者らを中心に、中村是公太田達人佐藤友熊橋本左五郎中川小十郎らとともに「十人会」を組織しています。そして、1889年明治22年)、漱石に多大な文学的・人間的影響を与えることになる俳人正岡子規と初めて出逢います。

以後、子規との交流は、漱石がイギリス留学中の1902年明治35年)に子規が没するまで続いたとのことです。

 

1890年明治23年)、創設して間もない帝国大学(後に東京帝国大学)英文科に入学。この頃から厭世主義神経衰弱に陥り始めたともいわれています。その後、松山中学、熊本の第五高等学校講師を経て英国に留学。帰国後1903年明治36年

に第一高等学校講師になり、東京帝国大学講師、1906年明治39年明治大学講師を兼任します。

 

その翌年には『我が輩は猫である』、翌々年に『坊っちゃん』を立て続けに発表します。1907年明治40年には教職を一切辞して朝日新聞に入社し、職業作家としての道を歩み始めます。こうして世に有名になると養父から金を無心される事件が起こります。この事件は『道草』の題材となります。その頃から胃潰瘍、酷いノイローゼに悩まされます。1909年(明治42年)『それから』、1910年(明治43年)には『門』を、 1914年大正3年)から朝日新聞に連載の『こころ』『道草』『明暗』書き続け、若くして49歳で生涯を終えます『明暗』が絶筆となりました。

長いおさらいになってしまいましたが、改めて、波乱万丈の人生だったと感じますね。

 

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