第25回 2017年7月10日
こんにちは、岡庭野野花です。
先週から考えはじめているのですが、「暴力団」とは、いったい何なのでしょうか。
『自己決定力』をもう一度開いて、暴力団についての文章を追ってみます。
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P95〜96
すべてのヤクザ(任侠)は、自=称である。
自分からそうだと名乗っているから、ヤクザ(任侠、渡世人、極道)なのだ。
あたりまえではないか、だって? それが現在の日本では、ちっともあたありまえではないのだ。1992年春、暴対法(暴力団新法)というものが登場した。これは、行為を裁く法律ではないという意味で、際だって特異な法律である。行為を裁くのでなければ、いったい何を裁くのか。存在を裁こうというのである。その意味では、まったく民主主義社会の法治概念にそぐわない。
戦後保守一党独裁政権は、当然のことながら左翼、新左翼を弾圧してきたが、法的な形式上は個々の行為を裁いている。〝過激派〟という巧みな@称を作り上げ、マスコミの協力で流布させることで、元々政治的な立場が異なるだけなのに、存在そのものを〝悪〟とイメージづけるのに成功した。それにしても〝過激派だから逮捕する〟という〝形式〟は、かつて存在しなかった。なんらかの行為が対象であった。
ところが暴対法は、〝おまえは暴力団の構成員だ。だから犯罪者だ〟と、いわば予断や差別を法的形式として実効させようというのである。
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みなさん、私は思うのです。
今回の「共謀罪」法案は、まさにこの「暴対法」の流れに近いものではないかと。これまでの「未遂罪」や「予備罪」とは、まるで異なるようです。犯罪の実行に着手したけれど、結果的に遂げられなかったものが「未遂罪」。計画した殺人に使用する目的で凶器を購入することなどが「予備罪」。「話し合って合意したとみなされる段階」で裁くことが「共謀罪」となります。
当時の「暴対法」と同様、集まっているだけで話し合って合意したとみなされる可能性がでることになるのです。
気分転換にときどき散歩をしますが、かわいいお花に出会うと癒されます。