復刻『週刊 岡庭昇』

〜岡庭昇を因数分解する〜

第62回 2018年6月4日

こんにちは、岡庭野野花です。

季節はどんどん巡っていますが、皆さまおかわりはございませんか。

 

ゆっくり読んできた『帝国の暗闇から』も、いよいよ終盤です。

 

A:

現在につながる内容に、毎回驚き考えさせられてきました。

 

B:

そして本当に勉強になります。前回の読書から、ナショナリズムについて学んでいます。

 

野野花:

父の書いたことが役立っているのはうれしいことです。ありがとうございます。

この本の結びに入っていきますね。

 

+++

P211

日本の近代化は体制のそれであって、そのまま民衆のあるいは思想の近代化ではない。むしろその富国強兵体制は前近代性の典型であって、幕末にマニファクチャーの興隆とともに確立されつつあった近代を、絶対制のもとに押し返したものに他ならなかった。

 

「義務教育」の名のもとに、方言と蔑称される地方語の追い出しが強制される。こんなべらぼうな「近代化」があろうか。

 

いうまでもなくこれは、公用語の作成とは違う。相似なのは、手っ取り早くいえばアメリ奴隷制度の中で「とりあえず労働力とする」ために拉致してきたまり、黒人に教えた「ことば」である。

つまり、文法抜きの「ビジン・イングリッシュ」である。

 

さらにP220へ。

 

ともかく日本の近代過程で、民族という概念(あるいは実態も)こそ不在であった。これがすべての曖昧さ、あるいは誤解の基本にある。

 

念のため付け加えるが、国家主義はせいぜいコスモポリタリズムと対立するかもしれないが、ナショナリズムインターナショナリズムと矛盾しない。かえってその基本であることはいうまでもないのである。ナショナリズムの確立による主体(民族)の成立が、インターナショナルな連帯の実現の前提である。

 

われわれが抵抗の拠点としての「民族」を持ち得なかったことを、深刻な問題として考える必要がある。

 

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この章で父は、茨木のり子さんや井川博年さん、さらにゲイであることを公開した詩人・相澤啓三さんの作品も引用しています。

 

P235

 

『虹を前に

終末を語るな。

橋がつながったばかりなのに

もう先がないなんてどうしていえる?

 

わたしたちは虹を追うものではない。

わたしたちが虹だから。

見えないけれど

わたしたちはどこにでもあり

広い空と

光と水があるしるしに現れる』

(『虹を前に終末を語るな』部分)

 

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引用の詩からも、父の思いが伝わります。

 

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